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『ことし読む本いち押しガイド2003no.1.

 

社会をラディカルに考えるための16冊+コラム

2002.12.

 

橋本努

 

 

 

【コラム】「サイバー時代の青年期」

マイクロソフト社が設立されてから今年で18年目。ビル・ゲイツ元年生まれの新しい世代はすでに高校を卒業し、世界はサイバー時代の青春期を迎えている。テロ事件の主犯格とされるモハメド・アタもまたその一人であった。Eメールを駆使して世界中を飛び回る彼のコミュニケーション能力を考えると、サイバースペースはもはや虚構ではなく、現実のグローバル社会を動かす武器そのものである。サイバー空間に潜む暴力は、テロ事件において圧倒的な現実を見せつけたのであった。

他方ではその同じサイバースペースが、世界経済を再編しつつある。ネット上の取引は、国単位から地域単位へと経済の再編を促すための駆動力となる。サイバースペースの脱虚構化は、これを世界経済のグローバルな再編に付随した現象として見ることもできよう。

なるほどグローバル化に対する不信感は依然として根強い。グローバル化という途方もない遠心力に対する不安は、低迷する日本経済への不安と共振しつつも、文化的に成熟した中産階級の生き方の問題としてあるのだろう。すなわちグローバル化への不信は、経済的に成熟した中産階級の人々が、経済成長の果実としての文化を保守的に受容するという欲求に関係している。しかしグローバル化以前の集合表象が国家の設計主義的な管理体制であってみれば、グローバル化にさらされる現代人の課題は、国家の興亡に自らの自尊心を投影することよりも、地域単位で社会を再構築していくという実践に夢を託すことでなければならない。国家的管理に対比される地域のロマン主義的な復興の理念は、現在ますます必要となっている。ここに挙げる16冊はいずれも、サイバー化、グローバル化、地域化、ロマン主義化、中産階級の文化的成熟化、不確実性の増大といった現実の中で、社会をラディカルに反省する契機を与えてくるものばかり。急速に進む世界的市場統合を受けて、古い思想が新たにニッチを掴んでゆくための模索が始まっている。

 

 

 

原田哲史『アダム・ミュラー研究』

ミネルヴァ書房/2002

 

18世紀末から19世紀前半にかけて活躍したドイツ人ミュラーは、上からの産業化を推進するプロテスタント的な近代化に抗してロマン主義の経済思想を構築した。一方ではカトリックの側から保守的で分権的な思想を展開し、他方ではイギリスに抗してドイツ経済の統一を掲げ、包括的共同体としての国家における精神的・文化的持続を重視する。その「球体的経済構想」は、スミスの市場論にアクィナスの神学的秩序論を融合するもので、市場経済と個人の関係を考えるためにも極めて示唆的である。社会経済思想史のなかにミュラーの生涯と著作を丹念に位置づけた本書は、たぐい稀な力作。今年最大の収穫であろう。

 

 

 

玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安 揺れる若年の現在』

中央公論新社/2001

 

統計データをよくみると、日本の経済格差は必ずしも広がったわけではない。また中高年ホワイトカラーの失業率は低く、終身雇用制度についても、中高年に対してはむしろ強化されているほどだ。ではどうして経済格差や雇用に対する不安が広がっているか。著者は「若者たちにやりがいのある仕事がない」という点に焦点を当て、不況下日本の経済を豊富なデータから読み解いていく。20代の若者を社内で人材育成しても、他の会社に引き抜かれてしまうというリスクが増大した結果、どの会社も人材育成に対して弱腰になっている。若者の失業率が増大する一方で、定職にある若者たちの労働時間は急速に伸びている。

 

 

 

メルロ=ポンティ『ヒューマニズムとテロル』

合田正人訳/みすず書房/2002

 

1947年に出版された政治評論集の新訳版。現実の自由主義国家は暴力原理と不可分であるとするポンティの批判は、面白いほどテロ事件以降の世界的現実にも当てはまる。憲法や制度化を通じてもはや自由が観念として凝固されてしまうと、それは偽善の原理と化し、戦争の態勢を強めてしまうという。では、現実の暴力的な自由主義原理に対抗する原理は何か。対案としてポンティの掲げるヒューマニズムは、非暴力とは正反対の、マキャベリ的な権力観に立脚した超派的マルクス主義。その立場は、イデオロギーを犠牲にしてはじめて成立するようにもみえるが、先鋭で深い政治的省察を残している。

 

 

 

朝日新聞アタ取材班『テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う』

草思社/2002

 

テロ事件の主犯とされるアタ(33歳)は、ドイツの大学で都市計画論を専攻する学生だった。エジプトで生まれ育ち、ドイツで学び、アジアでテロリストとなって、アメリカで死ぬ。どこにいてもインターネットで情報をやり取りし、グローバリズムの中核たるニューヨークの摩天楼へ吸い寄せられていった。もしかするとアタは、21世紀の社会的憤懣を象徴的に表現する人物はないだろうか。アタを手がかりにして世界が見えてくる。新聞記者8人の取材班による大掛かりな取材活動の大成果。

 

 

 

E.W.サイード『戦争とプロパガンダ』、『戦争とプロパガンダ2 パレスチナは、いま』

みすず書房/中野真紀子・早尾貴紀訳/2002、みすず書房/中野真紀子訳/2002

 

ニューヨークに在住するアラブ系知識人サイードの政治論集。テロ事件後のアメリカの反応を批判する一方で、パレスチナの現実に理解を求めるその声は、西欧の人々が深層に抱える「反ユダヤ主義に対する積年の罪悪感」を抉り出す。アメリカは毎年50億ドルもの税金をイスラエルの軍事とプロパガンダに提供しているが、そうした現状の下ではパレスチナ人に対する国際的理解はすすまない。テロ事件はパレスチナに対する偏見を、「世界テロ」に結合させることにもなっている。では知識人として何をなすべきか。それは複数のイスラムに立脚しつつ、西欧との曖昧な境界線に敏感な感受性を養うことだという。

 

 

 

ジャン・ボードリヤール『不可能な交換』

塚原史訳/紀伊国屋書店/2002

 

記号によって現実を表現・理解していく営みを「世界との象徴交換」と呼ぶならば、現代はもはやそうした交換が意味をなさない社会へと突入したと見ることができる。記号は現実の効果をもたず、不確実性そのものがゲームの規則となった社会において、無、幻想、不在といった交換されえぬものが世界の基盤として蘇える。バーチャルな現実は世界の交換(代替・表現)を目指しながら、それを駆動する「人為的な全能者」の欲望は絶望へと導かれざるを得ない。現実観察は挫折を余儀なくされ、世界はますます錯乱した虚無性へと向かっている。70歳を迎えた老思想家の本小著は、まるで自らの死を見つめるようだ。

 

 

 

ピーター・ゲイ『快楽戦争 ブルジョワジーの経験』

富山太佳夫(訳者代表)/青土社/2001

 

20年にわたるライフワーク『ブルジョワジーの経験』(五巻)の最終巻にあたる本書は、ブルジョワジーのイメージを根底から塗り替える衝撃の大作。フローベールからマルクス=エンゲルスを経て現代の知識人に至るまで、ブルジョワジーに対する批判と偏見には根強いものがある。創造的で高貴な精神の持ち主であれば、凡庸なブルジョワ階級を批判する義務があったのであろう。芸術を理解する力のない俗物、性の厳格さと不感症、金銭愛と公共心のなさといった批判は、高度知識人たちが節度ある中産階級に対抗して、「快楽」を正当化するための槍であった。本書は豊富な一次資料を駆使してこの通説に挑む。

 

 

 

佐伯啓思『貨幣・欲望・資本主義』

新書館/2000

 

資本主義の歴史はその当初からして、グローバルな資本移動と国家の社会安定化政策がせめぎあう運動であった。重商主義、帝国主義、ユダヤ資本主義、アメリカ資本主義といった歴史的概念を手がかりに、経済の動態を人間の根源的な欲望や精神の反映として読み解いていく。いわば資本主義の精神解剖学とでも呼ぶべきその省察は、経済的豊さを手に入れた現代日本の、その病める精神に対する診断でもある。もはや国家レベルでの社会的価値を再構築しなければ、グローバルな市場社会において生き残れない。古きを保守するのではなく、新たな公共価値の創造を企てなければ、グローバルな虚無へと陥るであろう。

 

 

 

ニール・J・スメルサー『グローバル化時代の社会学』

伊藤武夫・伊藤雅之・高嶋正晴監訳/晃洋書房/2002

 

ユネスコが企画した『現代の社会科学シリーズ』の第一巻に当たる本書(原タイトルは「社会学」)は、スメルサーが企画代表となって五大陸にまたがる19人の研究者に各論を依頼し、最終的な執筆責任をスメルサー自身が引き受けて書き直したという異例の教科書。例えば福祉問題ではナイジェリアから、民主主義体制への移行問題についてはブラジルから、開発問題ではベネズエラから、という具合に、本書はそれぞれのトピックを最も相応しい国の研究者に依頼している。政治・経済・宗教・家族・都市・女性などの各論を体系的かつ内容豊かに伝える本書は、まさに世界標準という名に相応しい社会学概論だ。

 

 

 

メーヌ・ド・ビラン『人間学新論 内的人間の科学について』

増永洋三訳/晃洋書房/2001

 

デカルトやライプニッツの機械論的啓蒙主義に抗して、哲学に生理学とロマン主義人間学を導入したビラン晩年の主著。原因としての自我の根源性から説き起こし、願望によって神を受け入れるという内的経験の自由を、活動する精神へと統合する。意志の能動性と身体の受動性の両面はともに必要であり、「意欲」ではなく、主体の外から引力のように作用する「願望」こそが、心臓を鼓動させ、涙を流させ、人間の諸器官を緊張させるという。感覚的生の諸器官は想像力の共感的影響と予定調和のもとに機能してこそ、願望の対象たる神と一体化することができる。人格の理想はこの願望による最高度の高揚にある。

 

 

 

アルフィー・コーン『報酬主義をこえて』

田中英史訳/法政大学出版局/2001

 

アメリカ心理学会賞を受賞した前著『競争社会を超えて』の姉妹編である本書はユーモアたっぷり。報酬や報奨といった外的誘因によって人間行動を動機づけることは、行動主義心理学のイデオロギーにすぎないのであって、実際にはそれほど効果的ではない。子供に対する親や教師の接し方、あるいは職場における上司と部下の接し方において、アメと鞭の管理はかえって非生産的・非教育的である。例えば点取り虫の生徒は、考える力が弱く、勉強に対する熱意もなければ、精一杯努力しようという気もないという。報酬主義は人間を貶めてしまう。豊富な事例に基づく本書は、教師、上司、親のために捧げられる快著だ。

 

 

 

大前研一『新・資本論』

吉良直人訳/東洋経済新報社/2001

 

原題『見えない大陸』の邦訳となる本書は、グローバルな仮想空間に広がるIT産業の未来を見据えた企業家必読の指南書。世界15%のシェアを誇る日本経済も、インターネットに蓄積された日本語の知識はわずか1%以下でしかない。イギリスやドイツに比べてボーダレス経済化の遅れる日本、マレーシアやインドに比べてサイバー経済化の遅れる日本社会を批判しつつ、サイバー経済内で支配的な立場を築くための企業戦略を考える。もはや富を国単位で考えるのではなく地域単位で捉え、500万人から2000万人規模の地域国家を、商売のフロンティア精神に基づいて構想するそのスケールの大きさには、ただ脱帽する。

 

 

 

河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』

NHK出版/2000

 

ファンタジー作家ミヒャエル・エンデの晩年のメッセージは、お金の意味を根源的に問うことであった。現代の金融システムはすべて、利子を要求し、経済成長を求め、その成長を強制するような性格を持つ点に閉塞感がある。グローバルな市場競争が生まれる背後で、その競争を煽り立てているのは、貨幣を操る金融工学者たちであり、灰色の男たち(『モモ』)である。ならば彼らの手から貨幣を奪い返すために、私たちは地域通貨やソーシャルバンクを通じて、豊かな人間関係のために貨幣を再構築できないだろうか。貨幣を再設計することを通じて心の豊かさを取り戻す。本書で紹介される諸事例はどれも示唆的だ。

 

 

 

坂本龍一・河邑厚徳『エンデの警鐘 地域通貨の希望と銀行の未来』

NHK出版/2002

 

前作『エンデの遺言』を受けて編まれた日本人の研究者たちによる地域通貨の研究レポート。「貨幣」や「金融」といった疎遠な言葉ではなく「お金」という日常語の意味を深く問うことで、人間の生き方を改めて見つめなおすことが可能になる。地域通貨の実践はプラグマティックな利得以上に、さまざまな可能性をもつ「未来社会」へと空想を膨らますための、いわば「ファンタジー効果」をもっている。ファンタジーは現実逃避というよりも現実を変革するためのツールである。地域通貨や無利子銀行などのさまざまな取り組みを知ることで、未来に希望を寄せる人たちの想像の共同体が見えてくる。希望の一冊だ。

 

 

 

エトムント・フッサール『イデーンII-I』(全五冊/第三冊)

立松弘孝・別所良美訳/みすず書房/2001

 

イデーン第一巻において現象学的還元の方法を詳述した著者は、本書(第二巻)において、とくに重要となる問題群を体系的に叙述しようと試みる。前半「物的自然の構成」では物理的自然科学の認識論的基礎が説明され、後半「有心的自然の構成」では心理学の認識論的基礎が説明される。とりわけ純粋自我の概念から自分以外の心的存在をいかにして構成的に把握しうるかという他者問題に対する解決が興味深い。はたしてフッサールの「感情移入」説はどこまで妥当なのか。身体を意志の自由な器官として捉えるその自我論は、現代リバタリアニズムの基礎論を提供するようにも見える。改めて検討すべき一冊だ。

 

 

 

塩沢由典『マルクスの遺産 アルチュセールから複雑系まで』

藤原書店/2002

 

数学者から経済学者へ転向した著者が最初に関心を持ったのは、アルチュセールとスラッファであった。戦後マルクス主義の思想的影響の中で著者はマルクスとの対決をどのように試みてきたのか。1975年から2000年までの四半世紀にわたる諸論文および半生を振り返るインタビューを収める本書は、20世紀日本の思想変容をたどるためにも、またマルクス主義という負の遺産から何を学ぶかを考えるためにも、われわれが共有すべき貴重な反省作業の一つである。本来ならマルクス経済学者がやるべき反省を、これだけ真摯にかつ自戒を込めて述懐するその姿勢に、敬意を表したい。各論文に付された改題も興味深い。